恣意的な公平感は予感をうみだし、予感は直観を鈍らせる。「思いつき」と「アイデア」の区別が難しいわけ。

コイントスで10回連続して表がでたら、その次にはそろそろ裏が出て欲しい気持ちになりませんか?もっと極端に言えば、これまでの人生で表しか出たことが無いとしたら、可能性としてありうるとしてもどこか不公平感を感じませんか?もちろんイカサマはないとします。
裏がでる可能性は常に50%ですが、それでもだんだんと「次こそは裏だろう」という気持ちが強まるのではないでしょうか。この事実と気持ちのズレを解消するために必要なのが予感かもしれません。「次こそは裏だろう」といくら強く感じても何ら現実世界との間に矛盾は起きませんから。予感とは似てい非なるものに直観があります。予感も直観も感覚的なものなので区別するのは難しいかもしれませんが、この違いが分かれば「思いつき」と「気付き」や「アイデア」の違いを知ることができるのかなと思いました。

事実と感覚のズレ

コインを投げたとき、
表が出るか、裏が出るか、
その可能性は五分五分です。

これはみんな知っているし、
経験的にも納得していると思うのです。

けれど…

10回連続して表が出た後、
その次に裏がでる可能性は五分でしょうか?

もちろん正解は五分です。
それなのに、五分ではない
という感覚もどこかにあります。

表ばかりが出過ぎていて、そろそろ裏がでないと
五分五分ではなくなってしまいそう。
だから、表より裏の方が出て欲しい。
もうしかしたらそうなるのではないか?
そんなムズムズした感覚。

実際には裏がでる可能性はきっかり五分で、
表より裏が出やすいということは決してないのに。

人間は本能的に公平感のある世界を望んでいる

例えば、綱引きはバラバラに引くより、
協調して引いた方が強い力を発揮できます。
1人1人がバラバラに行動するより、
協調した方がより大きな成果が出せるのです。

他者との協調は人間が持つ優れた能力です。
協調は人類の発展に大いに寄与した要素の1つです。

協調ではギブ・アンド・テイクが重要な役割を果たします。
他人に与え続けるだけの生き方、
他人からもらい続けるだけの生き方は、
どちらも協調関係がうまく成り立たちません。
与えるのも、もらうのもゼロなら、
そもそも協調関係が存在しません。
協調には公平感のあるギブ・アンド・テイクが
欠かせないと言えます。

しかし、自然はとくに人間関係を公平にしてはくれません。
自然のあるがままの姿であれば、
悪いことをしても逃げおおせて
そのまま幸せに暮らすかもしれません。
まじめに働いて農作物を作っても
災害で何も収穫できず、補償もされず
飢え死にするかもしれません。

何かスッキリしない感覚がうまれませんか?
悪いことをしたらそれなりに償うべき。
まじめに働いたのに飢え死にでは酷い。
というような不快感。

ちょっと古い実験があります。
Empathic neural responses are modulated by the perceived fairness of others

罰せられるべき理由のない人が
痛い目にあってるところをみると
私たちは不快感を感じます。
痛みに共感し同情するのです。

この実験が興味深いのは
痛い目にあっている人間を見ているのが男性で、
しかも痛い目を見ているのが
不公正な裏切り行為をした者である場合です。
悪事を働いた他者の痛みを見ると
なんと、大きな快感を得るのです。
そのように脳ができているのです。

自然のあるがままの姿ではなく、
もっと人間同士が協調しやすいように、
人間にとって公平感のある世界を作るための
原始的な賞罰や法に始まったルールが
近代の社会システムへと繋がっています。

人間は社会性を獲得し、協調するようになったことで、
そしてそれが人類発展の重要な役割を担ったという経緯から、
人間は本能的に公平感のある世界を望んでいるように見えます。
自然のあるがままでは得られない恣意的なレベルの公平感を。

自然は人間にとって公平であって欲しい

公平感のある世界であるべきだという強い希望は
それに反する状態を何とか解消しようとします。
社会システムにとどまらず、
心理的にもその影響は及びます。

先ほどのコイントスの例で言えば
既に確定した10回の表は事実なので変更できません。
しかし、その後のコイントスの結果は未確定です。
どう解釈してもさしあたり目立った矛盾にはさらされません。

世界が人間にとって不公平と心底認めるのは不快です。
世界が公平であるとして未来を考えることで
わき起こりつつある不快感を即座に解消できます。

不快感解消の代償として11回目のコイントスでは
裏が出る確率が五分より高くならざるを得ません。
とはいえ、私たちは11回目のコイントスで
裏が出る可能性は五分五分と知っています。

事実があまり歪まないように、
裏が出る可能性を五分より極わずかに高いと考えることにするか、
それよりも、裏がでる予感がすると感じる方が
もっと上手い解消方法でしょうか。
この、明確に認識したくない事実と、感覚のズレが
ムズムズした感覚の正体ではないかと思います。

公平性に対する感覚は社会生活を営むために重要です。
本能的なレベルで組み込まれているので無視できません。
そのかわりに
裏が出る可能性を五分よりわずかに高いと考えることにすれば
その反動として数理的思考を一貫して軽んずるしかありません。
予感としてムズムズを解消したなら
予感を価値あるものとして行動の根拠に加えざるをえません。
自己矛盾を避けるために。

予感と達成感が直観を鈍らせるかも

100%成功すると分かりきっているものに
成功しても達成感は感じません。
1%の成功確率であればラッキーと感じるだけです。

達成感や充実感に繋がるのは
成功確率50%前後のものであると知られています。

コイントスの例で言えば、
11回目に裏が出る可能性は五分五分です。
裏がでる可能性を五分と知りながら
不快感の即時解消のために裏が出る
という予感がしていたとします。

ここで裏が出ると、
成功確率50%の勝負に勝ったことになります。
それと同時に、自然そのものが人間にとって
公平であって欲しいという願望も叶います。
高い幸福感、達成感、充実感、満足感を感じます。

この場合の予感はあきらかに事実と無関係です。
より良い行動を選択するためには何ら役立ちません。
しかし、現実に自分にとって最良の結果が得られ、
その時の自分の行動を決めた根拠は予感となります。

ところで、予感と似たものに直観があります。
こちらは筋道を立てて説明はできないものの、
鍛え上げた能力や過去の経験から、
何かを感じ、見いだすものです。
ここで予感という言葉で表現したものとは似て非なるものです。

錯視を知っていてもそれを避けられないように、
予感とその正否は以後の思考に影響を与えます。
予感は判断材料に加える価値がないと知っていても
思考にバイアスが加わります。
論理的に明快であれば知恵で正しい判断を下せます。
しかし、直観は自分自身でさえも
筋道をたてて説明できない感覚的なものです。
予感と直観を感覚的に区別できないと
予感が直観のノイズになるのではと考えました。

これらの違いを認識できれば
「思いつき」と「気付き」や「アイデア」の違いに
気付いてより良い行動が選択できるのかもしれません。
人間の生物的特性を考えるとなかなか難しそうです。

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